2010年10月5日火曜日
依存症治療とは何か?その5
医学とは学問だ、と書いた。
学問とは何か?手元の電子辞書「広辞苑」によれば以下のようになる。
「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」。
以下同様に、昨日書いた「普遍化」と「個別化」について調べた。
「普遍化;一般化と同じ。特殊なものを捨て、共通のものを残すことによって、一般的なもの(概念、法則)を作ること」
「個別化;一つずつ別にすること」。
医学は、学問だ。だから、普遍化することが重要なのだ。
それは必要なことであると私は思う。個別の事例ばかりを追求していたとしたら、おそらく医学によって医療はいまほど人間の死亡率を低下させなかっただろう。もっというと、犬や猫や類人猿がなぜ人間ほど死亡率が低下しないかというと医学がないからだと言っていいと私は思う。
しかし、普遍化が非常に困難であるのが依存症治療なのだ。もちろん、自助グループでのミーティングに参加することで回復率が向上する、とか、重複依存がありうるとか、普遍化された内容が全くないとは、私は言わないし、言えない。
しかし依存症の人たちはそもそも依存症であることを拒否するので(これが「否認」)、そのような普遍化されたことに自分が当てはまるとは絶対に言わない。むしろ彼らは、彼ら自身を強調する。
つまり、普遍化よりも個別化を突きつけられるのだ。
以前に書いたうちの②以下を彼らは拒否し、「自分は自分である」と個別化せよと主張する。
こんなこと、他の診療科ではありえない。胃潰瘍の患者さんが個別化を主張するなんてどう考えてもありえない。胃潰瘍の患者さんにとって、「胃潰瘍である」と診断され、治療が進み、回復することが重要なのだ。
逆にいうと、依存症治療は通常の医療から浮き上がっており、他の診療科の医師たちは依存症者を理解出来ない、という場合が多い。
私 は偶然にも普遍化された医療つまり医学的知識が自分に当てはまらなかったという経験を持っている。娘の妊娠・出産がそうなのだ。「40歳代での妊娠する確 率は「医学的」には8%。私の場合は子宮外妊娠が既往歴にあるのでそれ以下、はっきりいって6%であればいいほうだ」。
悪意はないのだろうけれども、私の子宮外妊娠の手術をした主治医のコメントだ。
娘は6%に入った。つまり彼女は94%の「非妊娠」の確率を排したのだ。
普遍化された知識からいえば94%の方が起こりやすいのだ。娘は6%を起こし、無事この世に生まれ、新生児黄疸や新生児メレナを経たものの、今現在私の横で穏やかな寝息を立てている。
私 にとっては、これは衝撃的なことなのだ。人生の半分ほど(医学部の学生時代6年+医者になって14年=20年は42歳の私の人生の半分ほどの時間だ)を 「医学」という普遍化された知識に費やしてきた私は、娘を妊娠する前は「私が妊娠することはなさそうだ」と信じていた。94%を否定出来なかったのだ。
ところが娘を妊娠して、出産して、私は普遍化された知識や事項を疑うようになり、ますます依存症治療に気持ちが傾き始めた。
私の経験は、まずおいておこう。
依存症治療は、個別化なのだ。医学知識によりあてはまる「依存症」が目の前の患者さんにある、のではなくて、その人特有のどんな経緯で「依存症」と呼ばれるような事態に至ったのか。
この点に興味がもてないのなら、依存症治療をするなんて言えないと思う。
2010年9月14日火曜日
依存症治療とは何か?その4
依存症の人の「否認」にぶつかったら、外来で私は何か行動をしなくてはならない、と前回書いた。書いたあとで思った。
本当に行動しなくてはならないのか?
行動、というか、何か言わなくてはならない、と思う。じゃあ、何を?何を言うのだ?
最近の結論だが、何も言わなくてもいいのだ。依存症の人たちは、結局は回復したがっている。だから、私は「あなたが回復したいと思っているのを、知ってますよ」と言語的・非言語的に伝えることでOKなことも多いのだ。
逆に、何か偉そうな、知ったふうなことを依存症の人に言えば言うほど、ぐだぐだの状態(依存症の人たちにとっては、依存行動を継続すること)を増幅させるだけになる。
そう、今私のPCに10分おきに出てくる「新しい更新をしました。再起動してください」のメッセージのように、うるさい、と言われるだけだ。
特に私は女医なので、えらそうにすると、アルコール依存症のおじさんたちは反発を強めていく。私も、そういうおじさんたちに対して嫌悪感を持つので、良い関係は保てない。
ただ、どの病気でもそうだけれども、おじさんだからとか、女医だから、というのは当てはまらないと思う。ひとりひとり事情が違っているのだから、それを考えないと。
難しく言うと、普遍化せず、個別化して対応するべきだろうと思う。
本当に行動しなくてはならないのか?
行動、というか、何か言わなくてはならない、と思う。じゃあ、何を?何を言うのだ?
最近の結論だが、何も言わなくてもいいのだ。依存症の人たちは、結局は回復したがっている。だから、私は「あなたが回復したいと思っているのを、知ってますよ」と言語的・非言語的に伝えることでOKなことも多いのだ。
逆に、何か偉そうな、知ったふうなことを依存症の人に言えば言うほど、ぐだぐだの状態(依存症の人たちにとっては、依存行動を継続すること)を増幅させるだけになる。
そう、今私のPCに10分おきに出てくる「新しい更新をしました。再起動してください」のメッセージのように、うるさい、と言われるだけだ。
特に私は女医なので、えらそうにすると、アルコール依存症のおじさんたちは反発を強めていく。私も、そういうおじさんたちに対して嫌悪感を持つので、良い関係は保てない。
ただ、どの病気でもそうだけれども、おじさんだからとか、女医だから、というのは当てはまらないと思う。ひとりひとり事情が違っているのだから、それを考えないと。
難しく言うと、普遍化せず、個別化して対応するべきだろうと思う。
2010年9月13日月曜日
依存症治療とは何か?その3
前回の最後に「依存症って、だからすごいのだ。」と書いたが、いったい何がすごいのか、全然わからない気が自分自身でさえ、してしまった。
形容詞って、言いたいことをつたえきれない。そう思ってしまう。
言いたかったのは、依存症治療が他の医療と同じだと思ってしまうと、つらい、ということだ。また形容詞だ。形容詞が私の文章のほとんどのような気持ちがしてしまう。
医者になって、精神科以外なら、医者は医者として相手である患者さんという立場の人から、役割を与えられる。しかし、精神科ではそうならないことがあるのだ。いや、「ある」のではなくて、「ほとんど」「多い」というべきだろう。
医者として役割を患者さんから与えられないとはどういう事か。
医療を必要としているようにしか見えない相手が、「患者さん」という役割を取ることを拒否するという事態だ。そうなれば、「私は患者じゃないので、医者は必要ではありません」といわれてしまい、こちらはすごすごと引き返すよりほか術がなくなってしまう。
依存症の人たちは、ほぼ全員そういう。逆にそうではない人は、ほんとうに凄いのだ。
あ、また形容詞。具体的に書かなくては伝わりっこないのに、ついつい使ってしまう。
依存症の人たちには「自分が医療を必要としているまでに依存対象があることを認めない」という心性がある。これが「否認」という。
この「否認」の壁は強固で、いったんは「自分は依存症で、どうにもならない」と感じ入ったとしても、しばらくして「どうにかなって」しまうと、「自分は治療が必要なほど重症ではない」と思ってしまったり、「依存症じゃなかったのかもしれない」と思ったりする。
形容詞って、言いたいことをつたえきれない。そう思ってしまう。
言いたかったのは、依存症治療が他の医療と同じだと思ってしまうと、つらい、ということだ。また形容詞だ。形容詞が私の文章のほとんどのような気持ちがしてしまう。
医者になって、精神科以外なら、医者は医者として相手である患者さんという立場の人から、役割を与えられる。しかし、精神科ではそうならないことがあるのだ。いや、「ある」のではなくて、「ほとんど」「多い」というべきだろう。
医者として役割を患者さんから与えられないとはどういう事か。
医療を必要としているようにしか見えない相手が、「患者さん」という役割を取ることを拒否するという事態だ。そうなれば、「私は患者じゃないので、医者は必要ではありません」といわれてしまい、こちらはすごすごと引き返すよりほか術がなくなってしまう。
依存症の人たちは、ほぼ全員そういう。逆にそうではない人は、ほんとうに凄いのだ。
あ、また形容詞。具体的に書かなくては伝わりっこないのに、ついつい使ってしまう。
依存症の人たちには「自分が医療を必要としているまでに依存対象があることを認めない」という心性がある。これが「否認」という。
この「否認」の壁は強固で、いったんは「自分は依存症で、どうにもならない」と感じ入ったとしても、しばらくして「どうにかなって」しまうと、「自分は治療が必要なほど重症ではない」と思ってしまったり、「依存症じゃなかったのかもしれない」と思ったりする。
2010年9月9日木曜日
依存症治療とは何か?2
前回は、①患者さんになる人がまず生まれる。つまり、誰かが体調不良なり、精神不安なり、どこかいつもと違っているという状態をもって、治療者の前に現れる(受診)という段階が、「難しい」と書いて終わった。
①があって当たり前と思っていると、依存症治療は成り立たない。なぜなら、「否認」という大きな壁があるからなのだ。
少し話題がそれるのだが、疾患にはそれぞれイメージというか、「この病気にかかってしまったら、こうなる」というような予想図というものがある、と私は思っている。
わかり易い例は、白血病=薄幸の美少女というようなものだ。ただし、いまや白血病の中にはかなり予後の良いもの、つまり回復するものも多くて、この予想図は必ずしも当たらない。
卑近な例かもしれないが、性病は恥ずかしいとか、産婦人科は顔を知っている医者だと嫌だとか、泌尿器科は絶対に行きたくないとか、前立腺肥大症というのが恥ずかしいとか、そういうものがあるのだ。予想図として、これらの診療科は性と関連しているので、日本人の場合「性的に活発=恥ずかしい」という内容が構築されるのだろう。
さて、依存症治療だ。わかりやすくアルコール依存症をとりあげる。
アルコール依存症。一昔前の単語で言うと「アル中」だ。これが相当にひどい予想図をもっている。例えば、ホームレスで、仕事がなく(ホームレスで仕事のある人もいるのでわざと分けてみた)、いつも酒ばかり飲んでいる。例えばのその2としては、のんだくれのオヤジで奥さんに暴力を奮ってばかりいる。
依存症治療を10年以上やっている医者としては、これらはハズレてはいない、と言っておきたい。
大学4年生の時に、東京都監察医務院に見学した。そこで行政解剖を見学したが、その時にはホームレスの人も多く、アルコール依存症に見られる肝硬変や脂肪肝を患っている人はずいぶん多かった。例えばのその2のような、DVもよくみられる。
問題なのは、アルコール依存症について、これら以外の予想図が少なくとも日本にはないのだ。
そうなると、あきらかにアルコール依存症の診断基準に当てはまっていて治療を開始する必要がある人であっても、「自分は、例えばでもないし、例えばのその2でもない!」と言いはって、精神科受診を拒否する。
そう、アルコール依存症=生活破綻者という予想図があるのだ。そして、そのように診断されたくない、という心理構造、これが前述の「否認」というものだ。
放置しておけば、明らかに前述の「例えば」のようになってしまう。だから、そうならないように受診しましょう、というのが、精神科医である私の主張だ。
しかしこれがなかなか受け入れられない。そして、アルコール依存症の人たちは、どんどんその依存物質であるアルコールへの依存を深めていく。
これが「①の段階が難しい」という真意だ。
だから、なかなか精神科受診に結びつかず、その結果どんどん状況が悪くなっていく。
そしてこの予想図、かなりまずい。なぜなら、アルコール依存症=おじさんの病気となってしまっているのだ。
実際には、女性にもかなりの頻度で起こっている。例えば摂食障害の人たちの中には、アルコール依存症も合併している人がかなり多いように思う。私の外来に受診したアルコール依存症人たちの殆どは女性だった。
彼女たちは、「おじさんの病気」にかかってしまったことを恥じていて、精神科に受診しない。親も受診に反対する。「酒の飲み過ぎだ」と本人の意志の問題にされてしまう。こうしているうちにどんどんアルコール依存症は悪化して、離脱症状=禁断症状にいたる。二日酔いに代表されるこの症状、二日酔い程度ならまだ隠せるだろう。でも、進行して幻覚妄想状態や、振戦せん妄というけいれんを起こしたら、救急車で病院にいくしかない。生死をさまようことも多い。仮に生還しても自殺の可能性も高いのだ。
①という最初の段階で、ここまで他の疾患と違っているのだ。依存症って、だからすごいのだ。
少し話題がそれるのだが、疾患にはそれぞれイメージというか、「この病気にかかってしまったら、こうなる」というような予想図というものがある、と私は思っている。
わかり易い例は、白血病=薄幸の美少女というようなものだ。ただし、いまや白血病の中にはかなり予後の良いもの、つまり回復するものも多くて、この予想図は必ずしも当たらない。
卑近な例かもしれないが、性病は恥ずかしいとか、産婦人科は顔を知っている医者だと嫌だとか、泌尿器科は絶対に行きたくないとか、前立腺肥大症というのが恥ずかしいとか、そういうものがあるのだ。予想図として、これらの診療科は性と関連しているので、日本人の場合「性的に活発=恥ずかしい」という内容が構築されるのだろう。
さて、依存症治療だ。わかりやすくアルコール依存症をとりあげる。
アルコール依存症。一昔前の単語で言うと「アル中」だ。これが相当にひどい予想図をもっている。例えば、ホームレスで、仕事がなく(ホームレスで仕事のある人もいるのでわざと分けてみた)、いつも酒ばかり飲んでいる。例えばのその2としては、のんだくれのオヤジで奥さんに暴力を奮ってばかりいる。
依存症治療を10年以上やっている医者としては、これらはハズレてはいない、と言っておきたい。
大学4年生の時に、東京都監察医務院に見学した。そこで行政解剖を見学したが、その時にはホームレスの人も多く、アルコール依存症に見られる肝硬変や脂肪肝を患っている人はずいぶん多かった。例えばのその2のような、DVもよくみられる。
問題なのは、アルコール依存症について、これら以外の予想図が少なくとも日本にはないのだ。
そうなると、あきらかにアルコール依存症の診断基準に当てはまっていて治療を開始する必要がある人であっても、「自分は、例えばでもないし、例えばのその2でもない!」と言いはって、精神科受診を拒否する。
そう、アルコール依存症=生活破綻者という予想図があるのだ。そして、そのように診断されたくない、という心理構造、これが前述の「否認」というものだ。
放置しておけば、明らかに前述の「例えば」のようになってしまう。だから、そうならないように受診しましょう、というのが、精神科医である私の主張だ。
しかしこれがなかなか受け入れられない。そして、アルコール依存症の人たちは、どんどんその依存物質であるアルコールへの依存を深めていく。
これが「①の段階が難しい」という真意だ。
だから、なかなか精神科受診に結びつかず、その結果どんどん状況が悪くなっていく。
そしてこの予想図、かなりまずい。なぜなら、アルコール依存症=おじさんの病気となってしまっているのだ。
実際には、女性にもかなりの頻度で起こっている。例えば摂食障害の人たちの中には、アルコール依存症も合併している人がかなり多いように思う。私の外来に受診したアルコール依存症人たちの殆どは女性だった。
彼女たちは、「おじさんの病気」にかかってしまったことを恥じていて、精神科に受診しない。親も受診に反対する。「酒の飲み過ぎだ」と本人の意志の問題にされてしまう。こうしているうちにどんどんアルコール依存症は悪化して、離脱症状=禁断症状にいたる。二日酔いに代表されるこの症状、二日酔い程度ならまだ隠せるだろう。でも、進行して幻覚妄想状態や、振戦せん妄というけいれんを起こしたら、救急車で病院にいくしかない。生死をさまようことも多い。仮に生還しても自殺の可能性も高いのだ。
①という最初の段階で、ここまで他の疾患と違っているのだ。依存症って、だからすごいのだ。
2010年9月8日水曜日
依存症治療とは何か?
またまた久しぶりの更新となってしまい、すみません。元気にしてたのだけど。
産休中、自分の仕事を振り返ることが多くなったので、つらつらと書いてみる。
しばらくは、ここ15年ほど依存症治療に関わってきてどうであったか、ということを書こうかと思う。
依存症治療というのは、医学的ではない、と私は思う。医学的とはどういう事か、からはじめないといけないと思う。
医学とはなにか、というまたまた遠大で、大げさな内容になってしまう。しかし続けることにする。
医学とは、要するに学問なのだ。あるひとつのことを他のあることと共通点を見出して、共通点のあるものに応用し、普遍化する。学問とは、そういうことだろうと私は思う。それが医療、つまり、「具合の悪いひとたちを良くする」という行動に持ち込まれたものが医学だと私は思っている。
医療の発展型が医学だ、とここではそのようにしておこう。
で、冒頭の話に戻る。
医学の話だが、もうすこし原型に戻る。つまり、医療ではどういう事が起こるのか、ということと依存症治療を比較しようと思う。
医療では、①患者さんになる人がまず生まれる。つまり、誰かが体調不良なり、精神不安なり、どこかいつもと違っているという状態をもって、治療者の前に現れる(受診)。
②その後に、治療者(現代の医療の現場の大部分を占める病院ではたいてい医者だが)によって、問診が行われ、身体の診察をうけ、検査を受け、診断が決まる(診察・検査)。
③診断が決まると、たいていは現代の医学により治療法があるものはそれを実行する。治療法がない場合は、気休めといっていいような治療をされたりする。どちらもたいていは、薬=薬物療法だ(治療)。
④その後、治療が進んで患者さんは回復する(治癒、回復、完治、寛解)。
大体このようなプロセスがある。ちなみに、医学は②と③が普遍化して体系化したものだと私は思っている。
さて、依存症治療はどう違っているのか?そもそも①の段階が難しい。
この文章を読んで、不思議に思った人!素晴らしい。ちゃんと読んでくれているので、嬉しい。
依存症治療というのは、医学的ではない、と私は思う。医学的とはどういう事か、からはじめないといけないと思う。
医学とはなにか、というまたまた遠大で、大げさな内容になってしまう。しかし続けることにする。
医学とは、要するに学問なのだ。あるひとつのことを他のあることと共通点を見出して、共通点のあるものに応用し、普遍化する。学問とは、そういうことだろうと私は思う。それが医療、つまり、「具合の悪いひとたちを良くする」という行動に持ち込まれたものが医学だと私は思っている。
医療の発展型が医学だ、とここではそのようにしておこう。
で、冒頭の話に戻る。
医学の話だが、もうすこし原型に戻る。つまり、医療ではどういう事が起こるのか、ということと依存症治療を比較しようと思う。
医療では、①患者さんになる人がまず生まれる。つまり、誰かが体調不良なり、精神不安なり、どこかいつもと違っているという状態をもって、治療者の前に現れる(受診)。
②その後に、治療者(現代の医療の現場の大部分を占める病院ではたいてい医者だが)によって、問診が行われ、身体の診察をうけ、検査を受け、診断が決まる(診察・検査)。
③診断が決まると、たいていは現代の医学により治療法があるものはそれを実行する。治療法がない場合は、気休めといっていいような治療をされたりする。どちらもたいていは、薬=薬物療法だ(治療)。
④その後、治療が進んで患者さんは回復する(治癒、回復、完治、寛解)。
大体このようなプロセスがある。ちなみに、医学は②と③が普遍化して体系化したものだと私は思っている。
さて、依存症治療はどう違っているのか?そもそも①の段階が難しい。
この文章を読んで、不思議に思った人!素晴らしい。ちゃんと読んでくれているので、嬉しい。
2010年7月17日土曜日
立場を変えると。
また久しぶりの更新になってしまいました。6月に無事女児を出産して子育て三昧の私です。
当然ながら、出産の前後は医者としてというよりも、患者さんとして病院に関わる時間が増えました。つまり患者さんとして、私が受診するのです。
特に、産後は私の場合ちょっとしたトラブルがあり、受診することが増えました。
その中で気がついたのですが、当たり前かもしれませんが、医者は忙しいです。特に開業医の先生は忙しいのだなということです。
そうなると、5分診療も当然だし、すぐに効果のある薬を処方したくなるのだろうなと実感しました。
ただ、患者さんとしては、やっぱり話を聞いて欲しいのです。その上で、「それは、こういう事が考えられます」「こういう事が多いです」と知識や経験を伝えて欲しいと思ってしまいます。とはいえ、あまり決めつけられても辛いですが・・・。
コミュニケーションがほしい、といってもいいかもしれません。目の前の医者に話をよく聞いてもらい、その上で、今必要な治療という行動をとりたいのが、受診した患者さんという人ではないかなと実感しました。もちろん、頭からきつく管理されたり、命令されたりはやめて欲しいものですが。
5分診療でどうしたらいいのか、と思いますが、今回の産休中の体験を、復職後の外来に生かせたらいいのにと考えています。
2010年5月3日月曜日
産休
久しぶりの更新です。
というのも、昨年9月に妊娠していることがわかり、以後つわりなどの体調不良に悩まされ続けたからです。これは、以前にも書きましたが・・・。
その後すこしずつ改善していましたが、今年になってから外来に来てくれている人たちの紹介状書きに明け暮れていたのでした。やはり環境を私の都合で変えてしまうので、すこしでも希望されている病院やクリニックへ、今の状況を伝えて良くなって欲しかったので、気合を入れてしまうのです。
でもそうすると、かなり疲れてしまうのでした。やはり、妊娠していない時と比べて頑張りが効かないというか、でもそういうと、なんだか妊娠自体が良くないような気がして、さらにがっくりきたり。
そのようなことがありつつ先月から、産休に入りました。
産休に入れば入ったで、また、不調もありました。でも、今は楽しいです。というのも、子供との生活が楽しいのです。一緒に散歩に出たり、クッキーやバターを手作したり、という状況で、本当に楽しいのでした。
出産の状況など、また、お知らせできたら、と思っています。
2009年12月18日金曜日
仕事ノート
先日斎藤孝さんの「勉強力」を読みました。
感想はいずれこちらに・・http://seizsakaki.blog75.fc2.com/と思っていますが、まだです。
その中で、「仕事ノート」を作るといい、と勧めていらっしゃいました。
私もこうしてブログを書いていますが、どうしても記憶のみに頼ると、結局何を感じたのか、どう書きたいのかが分からなくなるので、外来の合間にこれをつけてみることにしました。
体調が悪い時にも、このようにノートをつけると、ブログに書きたいことを忘れずにいられます。これが私にとって最大の利点でした。
今後このノートの内容がブログに生きるといいな、と思っていますが、どうなりますか・・・。
2009年11月12日木曜日
発達障害な私
昨日は県内のY市の養護教諭会のお招きで、講演させていただきました。
講演は勉強になります。自分の知っていることを熱心に聞いてくれる人がいるのは、うれしくてありがたいですし、かつ自分が本当にどのくらいのことを知っているのかが自分に分かるからです。
今回の講演でつくづく感じたのは、私自身が発達障害だということでしょうか・・・。
厳密にどういう分類に入るのかよくわからないのですが、そうなのでしょう。
例えば、子どものころにスキップができませんでした。2歳くらいならいざ知らず、小学生になってもそうでした。これははっきりと「講座 子どもの心療科」という本に書かれている診断事項なので、私が発達障害なのは明らかでしょう。スキップができないために、運動会の練習で同級生にあざけられ、先生には叱られるというわけのわからない事態になっていきました。私は単に全然できないので、練習をしたのですが、たった一人でした。せめて、誰か学校の先生が一緒だったらどれほど支えられたかと思うのですが・・・。
そして、あまりにも運動能力が低い!!スキップもさることながら、自転車には小学校4年生まで乗れず、走るのも下手。速い、遅いの問題ではなくて、「下手」。走り方がおかしいという感じでした。縄跳びもできず、団体のタイプがダメ。必ず私で引っかかってしまい、大ブーイングを浴びてしまいます。球技も下手で、ほとんど私がいるだけで負けてしまい・・・。どれもわざとではないのに。
そして感覚過敏があります。嗅覚過敏が主ですが、当時の家の二階で私が読書していても、階下の母がつくっている夕飯メニューが香りでわかってしまうものでした。これは、この先の見通しがついていいものでした。
そう、見通し。見通しがつかないところでは私は、不安になってしまい、攻撃的になったり、被害的になったり、忙しいのです。だから学校の授業は大変でした。耳で聴いて何かを理解できないのです。視覚化、つまりプリントでこの先どうなるのかが分かるとかなり安心して、課題に取り組めるのですが、そうでないとわけがわからず、混乱してしまい、固まるのです。小学校3年生での百マス計算で、先生が説明するのですが、全然理解できないのです。。意味が伝わらないのです。そして説明後、「さあ、やりましょう」といわれてしまい、頭が白くなって、固まっているとまったくできない・・・。
おそらく当時の先生たちは、発達障害なんて私に対して思ったこともなかったのでしょう。だから私に対してできないこと(脳の構造上かなりのハンディを持っていること)を強要したのだろうと思います。でも、こういう強要は、たとえ発達障害のない子供に対しても、しない方がいいと私は思います。強要されてしまうと、子どもはがっくりとくるように思えます。私の感覚でいうと、発達が伸びにくくなる感じであり、それでいいわけもないと私は思うからです。
強要した方が、大人はらくです。でも、そうじゃないのではないでしょうか。
発達障害を持つ子供への対応がずいぶん取りざたされるのですけれども、そういう子どもたちだけが対応が必要ってわけじゃないと私には思えます。
2009年11月6日金曜日
生きてます
10月はまるまるこのブログを更新せず、ご心配かけました。
精神科の外来の日常とは、やや離れたプライベートの話ですが、このたびめでたく妊娠したので、つわりに苦しんでいました。
それでブログの更新が滞ってしまったのでした。
もちろん、つわりがあっても外来はしているのですが、外来中は「お、今日は体調がいいからブログをかけそう」と思っても、外来終了後にかなりの疲労感と、吐き気・嘔吐があるので、全然書けずにいました。
今はすっかりいいわけでもなく、また別に今度は眠れないという妊娠の初期に見られる状況があるのですが、眠れないときにブログを書く余裕は生まれつつあります。
というわけでまた少し筒更新していきたいので、よろしくお願いします。
2009年9月25日金曜日
「どっちも嫌なんです」
かれこれ彼女とは5年の付き合いです。お会いした時は高校生でした。
彼女の最初の主治医は私ではありませんでした。その医師は彼女の激しい幻覚妄想状態と、死に近いのではとはらはらするようなリストカット(全身をリストカットするので、リストと言う単語が正しいかわかりませんが)、過食・嘔吐、解離状態、思考障害、全く常識的と言えない(とカルテにありました)ファッションをみて、「統合失調症」と診断したようです。
彼女は障害年金を受給していて、その診断名も「統合失調症」です。
でも私は彼女にお会いして、3,4年後から彼女の診断は発達障害ではないか、と感じていました。激しい幻覚妄想状態やリストカットは、状況になじめなくなった発達障害の人にも見られるし、解離状態も自分を守るために発達障害の人たちはよく講じる方法です。思考障害は認知的に偏りがあるという意味かもしれないし、ファッションは好みだし・・・(当初はゴスロリ、でした。最近はミニスカートをどこまで短くできるかに凝っているようです)。
つい先日、この話を彼女としました。それでニキ・リンコさんの本を勧めました。
先週は、リストカットがことに激しくて、ひさしぶりに全身でしたし、過食・嘔吐も一日10回やっていたそうでした。救急外来にも受診して、本人も家族も大変だったようです。
そしてつい最近の受診でした。
彼女「ニキ・リンコさんの本、読みました。当てはまり過ぎて。特に、いつトイレに行ったらいいのか分からないってところ。トイレに行きたいのはわかるけど、いつ行ったらいいのか、と言うあたりが・・・」。
私「そうかあ。ところで、読んでみてあなたにとって、統合失調症と発達障害と、どっちの方がいわれて楽って、あるのかしら?」
彼女「どっちも嫌なんです。嫌です」。
それはそうだよなあと、はた、と思いました。どっちにしても彼女にとっては自分をコントロールできるようになる方法を即教えてくれるものではないからです。
統合失調症も発達障害も医者が彼女の気持ちを聞いてつけたものではないし、いわば彼女の気持ちを度外視してかってに医者がくっつけた邪魔ものでしかない・・・。
それでも、発達障害かと思っている、と言った私に、ニキ・リンコさんの本をわざわざ買って読んで「当てはまっている」と言ってくれた彼女は、すごいと改めて思いました。
ちょっとぶっきらぼうでとっつきにくいといえば、そうなんですが、彼女は精一杯私がどうしてそう考えたのか、知ろうとしてくれたのです。
うれしかったし、こういう気持ちを活かしたいなあと思えました。
2009年9月17日木曜日
2009年9月7日月曜日
方言
私の住んでいるところは、東北地方なので方言がはっきりわかります。私としては楽しくて好きなので、いつも使いたいのですが、この地方にずっと住んでいる人たちにとって、方言=カジュアル、標準語=フォーマルのようです。
外来でお母さんたちも当然のように標準語で話してくれます。でもだんだんと私と会い続けているうちに、方言が出てくるようになるのです。
そうなると私も、おお、ついに私もカジュアルとして認められた、日常の中に入ったのだなあとうれしくなるのです。
ある不登校の女の子のお母さんが彼女と一緒に来てくれています。お母さんは、私と会うときはたいてい緊張するようでした。いつもいつも、丁寧な標準語で慎重にお話をしてくれるのです。それはありがたいのですが、もうすこしゆっくりしてくれても・・・と私は勝手に思っていました。
先日のことですが、前述のお母さんと外来でお会いする機会がありました。なんと家でおばあちゃんが転倒して骨折してしまい、家事をするためにお母さんが職場から介護休暇をとって家にいるというお話でした。でもそのときに、外来に来てくれている彼女がとてもしっかりして、お母さんと一緒に家事(炊事も含む)をしてくれるので、本当にありがたいし嬉しいということでした。
このお話の間中、お母さん、方言を使っていたのです。なんだか、私もお母さんと少し距離が近くなったように思えてうれしかったです。
まだまだ彼女も外来に来たい、と言ってくれているので、またお母さんと会う機会があるでしょう。また方言でお話ししてほしいです。
2009年8月30日日曜日
JSPPセミナー
8月28日から二泊三日で児童精神科の勉強をするJSPPセミナーに参加しています。
私はこれまでに一度も外国で勉強をしたことはないですし、日本国内でも専門機関で勉強をしたこともないのです。だからこそ、このセミナーに毎年参加しています。
今年は、うれしいことにさまざまな人から話しかけられました。
私の今いる東北の場所について聞いてくれたり、私の外来の方法を聞いてくださったり。本当にうれしかったのです。
もちろん、セミナーの内容も素晴らしいものです。
今年は特にADHDと子供のうつという二大疾患がテーマでした。杉山登志郎先生のADHDと虐待の関連、原田謙先生のADHDから進行した反抗挑戦性障害や行為障害などの疾患にどう対応するかなどが実にわかりやすく、よかったです。
また来年も参加したいものです。そして、来年まで自分の外来を磨いていきたいものです。
私はこれまでに一度も外国で勉強をしたことはないですし、日本国内でも専門機関で勉強をしたこともないのです。だからこそ、このセミナーに毎年参加しています。
今年は、うれしいことにさまざまな人から話しかけられました。
私の今いる東北の場所について聞いてくれたり、私の外来の方法を聞いてくださったり。本当にうれしかったのです。
もちろん、セミナーの内容も素晴らしいものです。
今年は特にADHDと子供のうつという二大疾患がテーマでした。杉山登志郎先生のADHDと虐待の関連、原田謙先生のADHDから進行した反抗挑戦性障害や行為障害などの疾患にどう対応するかなどが実にわかりやすく、よかったです。
また来年も参加したいものです。そして、来年まで自分の外来を磨いていきたいものです。
2009年8月27日木曜日
もめごと
タイトルを見て驚かれたかもしれませんが、私が誰かともめごとを起こしてしまった、のではありません。
先日の外来で、お母さんが紹介状を持参してお子さんを連れて受診されました。お父さんも一緒だったのです。
紹介状を持ってきておられたこと、お母さんがかなり悩んでおられること、何より問診表に受診に家族全員賛成と書かれていたので、心理検査の予約を入れようとしました。
最初から、はっきりきけばよかったのですが、どうも問診表を真に受けすぎたようです。予約を入れようとした時にお父さんが「検査なんて、自分はいやだ」と話し始めたのです。
そういう場合はあるので、私は話をもっと聞こうとしたのですが、お母さんがすっかりあわててしまい、子どもさんご本人がおられる前で、ものすごいもめごとになりました。
お互い信念があっての発言が相次ぐので、私としてはもう少し聞きたいなあと言う感じだったのですが、子どもとしてはいやではなかろうか、と思い(私自身が子供のころ親のもめごとなんて見たくなかったので)、子どもさんはプレイセラピー室を見学に行ってもらいました。
そしてその後もなかなかに面白い話は続き、私はお父さんお母さんの意見の一致がないので、この後の方向性がいつもとは変えざるを得ず、パターンが違ってしまい勝手もわからず、困るには困ったのですが、結構楽しめました。お父さんの成育歴もわかりましたし、いいことが多かったのです。
そして、プレイセラピー室もその子供さんにすっかり気に入ってもらえました。
というわけで検査は保留ですが、また来てもらうことになりました。同時に学校にも来てもらえることになりました。
もめごとって、聴く側の私が楽しんでしまえばそれまでの経過も話しやすいのかもしれません。
先日の外来で、お母さんが紹介状を持参してお子さんを連れて受診されました。お父さんも一緒だったのです。
紹介状を持ってきておられたこと、お母さんがかなり悩んでおられること、何より問診表に受診に家族全員賛成と書かれていたので、心理検査の予約を入れようとしました。
最初から、はっきりきけばよかったのですが、どうも問診表を真に受けすぎたようです。予約を入れようとした時にお父さんが「検査なんて、自分はいやだ」と話し始めたのです。
そういう場合はあるので、私は話をもっと聞こうとしたのですが、お母さんがすっかりあわててしまい、子どもさんご本人がおられる前で、ものすごいもめごとになりました。
お互い信念があっての発言が相次ぐので、私としてはもう少し聞きたいなあと言う感じだったのですが、子どもとしてはいやではなかろうか、と思い(私自身が子供のころ親のもめごとなんて見たくなかったので)、子どもさんはプレイセラピー室を見学に行ってもらいました。
そしてその後もなかなかに面白い話は続き、私はお父さんお母さんの意見の一致がないので、この後の方向性がいつもとは変えざるを得ず、パターンが違ってしまい勝手もわからず、困るには困ったのですが、結構楽しめました。お父さんの成育歴もわかりましたし、いいことが多かったのです。
そして、プレイセラピー室もその子供さんにすっかり気に入ってもらえました。
というわけで検査は保留ですが、また来てもらうことになりました。同時に学校にも来てもらえることになりました。
もめごとって、聴く側の私が楽しんでしまえばそれまでの経過も話しやすいのかもしれません。
2009年8月12日水曜日
「お母さんを看てなくちゃ」
外来に統合失調症のお母さんを抱えた、女の子が来てくれています。まだ10代の前半で、一番お母さんが必要な年代なのですが、残念なことにお母さんは不調です。
お母さんはいろいろな考えがあって、お薬をやめたようなのですが、そのせいで非常に不調で、興奮しやすかったり、叫んだり、危険なことをするそうです。
母方のおじいさん、おばあさんは、お母さんとすぐに衝突するので、なかなかお母さんとお話もできず、接触を避けてしまっているそうで、お母さんにとって頼りになるのは、この人のお父さんとこの人だけ・・・。お父さんには仕事がありますし、夏休みの今、彼女が日中お母さんと一緒にいて、お母さんが危険なことをしないかどうか、見守っているということなのです。
そのせいか、夜は寝つきが悪いし、おかしなつらい夢ばかり見るし、勉強をする気にもならず、つらい、と話してくれます。
この話、涙が出てきました。まだまだお母さんに甘えていたい年頃なのに、なぜこういうことになるんでしょうか・・・。
お父さんにお話して、お母さんの主治医に相談しては?と持ちかけましたが、なかなかそれは実現しそうにないのです・・・。
どうしたらいいのかと、彼女の今後が気になるのです。
今日のブログタイトルは、彼女が外来の終わり際に言ったことです。これを聞いて余計にどうしたらいいのかわからなくなっています。
お母さんはいろいろな考えがあって、お薬をやめたようなのですが、そのせいで非常に不調で、興奮しやすかったり、叫んだり、危険なことをするそうです。
母方のおじいさん、おばあさんは、お母さんとすぐに衝突するので、なかなかお母さんとお話もできず、接触を避けてしまっているそうで、お母さんにとって頼りになるのは、この人のお父さんとこの人だけ・・・。お父さんには仕事がありますし、夏休みの今、彼女が日中お母さんと一緒にいて、お母さんが危険なことをしないかどうか、見守っているということなのです。
そのせいか、夜は寝つきが悪いし、おかしなつらい夢ばかり見るし、勉強をする気にもならず、つらい、と話してくれます。
この話、涙が出てきました。まだまだお母さんに甘えていたい年頃なのに、なぜこういうことになるんでしょうか・・・。
お父さんにお話して、お母さんの主治医に相談しては?と持ちかけましたが、なかなかそれは実現しそうにないのです・・・。
どうしたらいいのかと、彼女の今後が気になるのです。
今日のブログタイトルは、彼女が外来の終わり際に言ったことです。これを聞いて余計にどうしたらいいのかわからなくなっています。
2009年8月10日月曜日
読書会「私たち、発達障害と生きてます」
8月9日は、すくーるばくで読書会でした。課題図書は「私たち、発達障害と生きてます」(高森明他著、ぶどう社)でした。
ニキ・リンコさんの著作を読んでもよくわかるのですが、発達障害だと不便そうだなという感じです。人との交流において、よくわからないというのは、人間が社会を作っているという現実にあまりに即していないといえば、そうではないでしょうか?
しかし、発達障害があるからといって、生きていけないわけではないのですし、社会のお荷物でもないのです。
むしろ、私たちに新たな世界を提示してくれる人たちなのです。
私たちが困るのは、その人たちとどんなふうにコミュニケーションをとったらいいかということなのですが、そのためにお互いを知り合いましょうというのが、この本の趣旨だと思います。
現に、この本を読んで「そんなことを考えて生きているのか!」と驚く点と、「あ、私と同じだ」と思う点があります。
つまり、私たちと彼らとの共通点もこの本は提示してくれています。
ちなみに私が「あ、私と同じ!」と思ったのは、アハメッド敦子さんのポケットについてのこだわり部分です。私も全く同じで、バッグを買うのに一苦労したことがあるのです。それこそ出張の際に、出張をしに行ったのか、バッグを探しに行ったのか分からなくなるくらいでした。
共通点探しも楽しいこの本です。
ニキ・リンコさんの著作を読んでもよくわかるのですが、発達障害だと不便そうだなという感じです。人との交流において、よくわからないというのは、人間が社会を作っているという現実にあまりに即していないといえば、そうではないでしょうか?
しかし、発達障害があるからといって、生きていけないわけではないのですし、社会のお荷物でもないのです。
むしろ、私たちに新たな世界を提示してくれる人たちなのです。
私たちが困るのは、その人たちとどんなふうにコミュニケーションをとったらいいかということなのですが、そのためにお互いを知り合いましょうというのが、この本の趣旨だと思います。
現に、この本を読んで「そんなことを考えて生きているのか!」と驚く点と、「あ、私と同じだ」と思う点があります。
つまり、私たちと彼らとの共通点もこの本は提示してくれています。
ちなみに私が「あ、私と同じ!」と思ったのは、アハメッド敦子さんのポケットについてのこだわり部分です。私も全く同じで、バッグを買うのに一苦労したことがあるのです。それこそ出張の際に、出張をしに行ったのか、バッグを探しに行ったのか分からなくなるくらいでした。
共通点探しも楽しいこの本です。
2009年8月6日木曜日
書評「安楽病棟」箒木蓬生著

書評「安楽病棟」箒木蓬生著(新潮文庫) 819円(税別)
個別性と同一性。このふたつがバランスを保たなくてはならないのに、とこの本を読んでの一番最初に出てきた一言でした。
非 常に面白い本です。最初から8章ほどまでには、病棟に登場する認知症の人たちの個別のエピソードがつづられています。どれもが、その人という存在をここま でかというほど特徴づけており、まったく同じエピソードはないのです。それは、周囲の人とのかかわり方や、周囲の人からのその人への思いがあります。
こ れが個別性というものだと思います。例は、この本に登場するケーキ屋さん菊本さんだと思います。菊本さんはケーキ職人であり、この人のエピソードは、息子 のお嫁さんの立場から描かれています。この描きだす立場の人の選択も、絶妙です。本人からだけではなくて、周囲の人からの思いをあぶりだすのです。
一 方で、看護師の立場では、認知症の人たちは同じような症状を持つように描かれています。いえ、同じような困りごと、というべきでしょう。たとえば、途中で 看護師の城野さんの排尿指導についての看護研究発表の内容がありますが、これなど上述した個別性ではなくて、疾患としての同一性を描いています。このとき に、菊本さんで描かれたような個別性は問題にされません。
これが疾患としての同一性です。これがなければ、治療は進みませんし、認知症のように治療法が確立していない疾患であれば、看護や介護は同一性に目が向かなければ、とてもやれません。
医師の香月はこれを間違えてしまったのではないでしょうか。
疾 患としての同一性だけを考えるのだとすれば認知症の人は、周囲を苦しめ、自分さえも苦しんでいる疾患で、排除すべきなのかもしれないのです。しかし、この 本の中で、城野さんや看護主任がなんども実感しているように、認知症の人たちが周囲の人に与えるなにかーケアしてあげたという単純な安堵感かもしれません し、生きているだけでよいという存在そのものの是認かもしれませんし、あるいはほかのなにかーがあるのです。
認知症病棟の担当医師になっていて、香月がこれに気付くことはなかったのでしょうか。
気付けなかったのだと、私は思います。香月という人は「良い医者」であろうとしたのでしょうが、あくまでも「あろうとした」だけなのでしょう。いえ、「良い医者」として、治療をやろうとすればするほど、認知症を受け入れられなくなったのでしょう。
人として、この人たちが自分の未来を包含していると、だからこそ、この人たちとともに生きる時間が必要なのだと、そのように受容できなかったのかもしれません。
香月本人だけの問題ではなくて、医者全体の問題です。それを突き付けられたのでした。
2009年8月5日水曜日
摂食障害の女の子
先だっての外来で、摂食障害の女の子がやってきました。かなり痩せていて、BMIは12.1でした。
私はお定まりのように「体に悪いから、ごはん食べるようにしょうね」と言いかけて、やめました。このように話して、実際に食べるようになれた人に会ったことがなかったからです。
彼女ともう少し話をしてみました。よく聞くと、数ヶ月前にクラスの男の子から「太ってる」と笑われてしまったこと、部活で今までの仲よしの子たちとうまくいかなくなったこと、進級してクラスが変わって緊張していること、お母さんが最近転職してあまり家にいないのでさみしいこと、などなど・・・。
状況があまりよくなくて、それを何とか変えたいと思っている、どうもそのようでした。彼女にそう聞くと、小さくうなづいていました。
まだまだ10代の前半の彼女にとって、体に悪いから、といっても何ら説得力がない、と実感しました。
そこで、次のように伝えてみました。「カッコよくやせられたら、いいよね」。
彼女がどう思ったか、よくわからないのですが、この話には彼女はOKをくれました。そういうわけで、今、彼女は拒食をしたり、過食をしながらも外来に通ってくれています。
うれしいことに、随分いろいろと話してくれますし、お父さんやお母さんにもそうらしいです。
この後、どう彼女が変化するかわからないですが、その変化を見せてもらえたら嬉しいです。
私はお定まりのように「体に悪いから、ごはん食べるようにしょうね」と言いかけて、やめました。このように話して、実際に食べるようになれた人に会ったことがなかったからです。
彼女ともう少し話をしてみました。よく聞くと、数ヶ月前にクラスの男の子から「太ってる」と笑われてしまったこと、部活で今までの仲よしの子たちとうまくいかなくなったこと、進級してクラスが変わって緊張していること、お母さんが最近転職してあまり家にいないのでさみしいこと、などなど・・・。
状況があまりよくなくて、それを何とか変えたいと思っている、どうもそのようでした。彼女にそう聞くと、小さくうなづいていました。
まだまだ10代の前半の彼女にとって、体に悪いから、といっても何ら説得力がない、と実感しました。
そこで、次のように伝えてみました。「カッコよくやせられたら、いいよね」。
彼女がどう思ったか、よくわからないのですが、この話には彼女はOKをくれました。そういうわけで、今、彼女は拒食をしたり、過食をしながらも外来に通ってくれています。
うれしいことに、随分いろいろと話してくれますし、お父さんやお母さんにもそうらしいです。
この後、どう彼女が変化するかわからないですが、その変化を見せてもらえたら嬉しいです。
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