昨日は、読書会でした。アゴタ・クリストフ著「悪童日記」を読みました。
私は実はこの本を読んでいないのですが、この本を読んだ人の話を聞き、本の中の当該の場所を観ていくうちに、主人公の双子の「ぼくら」は実は、母方祖母から、村人から、ひいては戦争という事態から、虐待を受けていたのだと、思い始めました。
それは、p41の体を鍛える話の中で、「痛いのは別人だ」と痛みを感じないようにする部分と、作文を書きあうときに自分たちの感じたことや、感情を書かないということから、これは、虐待された子供たちがそのまましている行動だと気がついたからです。
戦争中に、他にも「ぼくら」のような扱いを受けた子どもがたくさんいたことでしょう。でも、大人も子供も生存することで精いっぱい、つまりは、身体機能を保つことにのみ関心があり、その後にもたらされるであろう、精神機能の不調には気がつくこともなかったのでしょう。
つまり、目に見えないものは、「ないもの」として扱われたのです。
子どもにとって、誰かが自分のことを気にかけてくれていると実感することは、その後に生きていくために必要なのです。誰かに愛情をかけるということもそこから学ばなくてはなりません。愛情を受けたことがなければ、愛情を与えることはできないのですから。
戦時中には、そういう目に見えないものを抹殺してしまったということです。もっというと、子どもとして生きることも抹殺されたのです。
そのようにして読むと、むやみと大人びた「ぼくら」が得られなかったものの重みが感じられて、痛みすら感じてしまう本でした。
自分の感情のことばかり考えてしまい、私は、他の人の感想を気にかけられないでいた昨日の読書会でした。
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