小児喘息。私も以前にかかっていました。成長してから、改善しましたが・・・。
でも、外来に来る虐待を受けている子供のほとんどが、喘息を持っています。少なくとも、喘息にかかったことがあるということなのです。
精神的なストレスで喘息が悪化する傾向があるので、虐待を受けている子供たちが離間するのは当然かと思います。
10年以上虐待を受けていた方がそもそも私の外来に来てくれるようになったきっかけも、喘息発作でした。
虐待を受けている子供たちは、なかなか「虐待がある」とは訴えません。でも、体は訴えているんだなあと思います。
もちろん、喘息がある⇒虐待がある、にはなりません。
虐待がある⇒喘息がある、ということが多い、ということです、念のため。
2009年6月19日金曜日
書評「風花病棟」帚木蓬生著(新潮社)

現役の精神科医が作家としても活躍する、ということはなにも珍しいことではありません。考えれば思いつく人が多いことでしょう。
著者もその中の一人かもしれません。
ただ、私が読んでみて感じたのは、構成のしっかりした短編を「物語」としての醍醐味を損ねずに供することができる人は著者ほどにはおらなかった、ということです。
10編ある「物語」がひとつもわが身に置き換えられない人はいないと思うのです。医者かそうでないかはべつにしても、です。
戦争、男女間暴力、癌、リタイア、などなど、さまざまな「味」を著者は出してくれます。
その中で私が一番気に入ったのは、「ショットグラス」と「藤籠」です。
「ショットグラス」では、男性からの暴力(社会的、身体的)なものに対して、女性はどう対抗するか、を考えさせてくれます。自分を大切にするとはどういう意味か、ということも、私は考えてしまいました。
「藤籠」では、前半部分は私自身医者になってから悩んだことですが、ラストの段落が衝撃的でした。もしも自分が同じ立場だったら、どれほど自分のなしたこと、ひいては、子どもにとって自分が親でよかったのか、ということも考えてしまうことでしょう。
そうです。この本は「考える」ということを、「味」として出してくれる稀有な本なのです。
2009年6月10日水曜日
DVの被害にあっている方とお会いするとき
最近、DVの被害にあっている方とお会いすることが多いです。
その際に思うのが、それまで自分が思っていたDV=加害者の夫から逃げる、という方法もいいのですが、その単純化が被害にあっている方本人にとってはつらくなることがあるかもしれない、ということです。
どういうことかというと・・・。
DVにあっているからといっても、加害者と被害者はつきつめると夫婦なのです。一度は、この後一生仲良くしよう、一緒に暮らして、幸せになろう、と約束しあった二人なのです。そうなると、二人の間には歴史もあるし(もちろん、DVの歴史ですが、暴力の間にはよい関係の時代もあったと当事者には思えてしまうのです)、子供もいるし、となります。
そうなると、どうしてもすぐに離婚、夫から逃げる、という考え方にはなりにくいと思うのです。
私は、そういう人たちには今後の人生、結婚生活を続けるかどうかを、DVの被害にあっている人本人に考えてもらうというスタンスをとっています。
その方が、私もその方も楽だと思うからです。
実際その方には、今後の生活のことを考えなくてはならないなどプレッシャーも多いのでその方にっては楽ではないかもしれませんが、自分の人生に向き合っていくことは、必要ではないでしょうか?
今後の人生を考えるときに、苦しい症状やつらい症状(主に精神的なものですが)があると、考えにくいので、症状がマイルドになるお手伝いをするのが私、という役目をとらせてもらいます。
そして、今後の人生を一緒に考えていけたらいいですね、というスタンスです。
その方が、私には合っているスタンスのようです。
立場が逆なら、私はそういう医者を選びたいですし・・・。
実際にそうなれているかは、まだまだですが、今後の課題です。
その際に思うのが、それまで自分が思っていたDV=加害者の夫から逃げる、という方法もいいのですが、その単純化が被害にあっている方本人にとってはつらくなることがあるかもしれない、ということです。
どういうことかというと・・・。
DVにあっているからといっても、加害者と被害者はつきつめると夫婦なのです。一度は、この後一生仲良くしよう、一緒に暮らして、幸せになろう、と約束しあった二人なのです。そうなると、二人の間には歴史もあるし(もちろん、DVの歴史ですが、暴力の間にはよい関係の時代もあったと当事者には思えてしまうのです)、子供もいるし、となります。
そうなると、どうしてもすぐに離婚、夫から逃げる、という考え方にはなりにくいと思うのです。
私は、そういう人たちには今後の人生、結婚生活を続けるかどうかを、DVの被害にあっている人本人に考えてもらうというスタンスをとっています。
その方が、私もその方も楽だと思うからです。
実際その方には、今後の生活のことを考えなくてはならないなどプレッシャーも多いのでその方にっては楽ではないかもしれませんが、自分の人生に向き合っていくことは、必要ではないでしょうか?
今後の人生を考えるときに、苦しい症状やつらい症状(主に精神的なものですが)があると、考えにくいので、症状がマイルドになるお手伝いをするのが私、という役目をとらせてもらいます。
そして、今後の人生を一緒に考えていけたらいいですね、というスタンスです。
その方が、私には合っているスタンスのようです。
立場が逆なら、私はそういう医者を選びたいですし・・・。
実際にそうなれているかは、まだまだですが、今後の課題です。
2009年6月7日日曜日
子育てが間違っていた・・・というわけではないのですが
前回の続きです。
20歳代になってから、発達障害かもしれないという診断となった場合、本人も大変でしょうけれども周囲も大変なのです。
つまり、もう一度診断をはっきりさせるために、子どものころのことを親御さん世代に思い出してもらう必要があるからです。
そうなると、記憶があいまいなのは当然ですが、「いまさらそんな、この人の育て方がダメだといわれたって・・・」というような反応になってしまうことが多いものです。
そうなると、私から御本人を通じて外来にきて、検査(PARS;pervasive developmental disorder rating scales;広汎性発達障害評定尺度という聞き取りタイプのもの)をしたいのですが、と伝えてもなかなか外来に来てはいただけません。
私としては、発達障害であれば、カウンセリングやグループセラピーがメインとなりますし、うつ病のみであれば、お薬がメインになってきますから、治療方針を決めるのに大事なことなのですが、自分の今までのことを責められてしまうのではないか、と怖がってしまう親御さん世代が多いようで、なかなかうまく進みません。
どうやったらいいものかなあと、考えているのですが・・・。
20歳代になってから、発達障害かもしれないという診断となった場合、本人も大変でしょうけれども周囲も大変なのです。
つまり、もう一度診断をはっきりさせるために、子どものころのことを親御さん世代に思い出してもらう必要があるからです。
そうなると、記憶があいまいなのは当然ですが、「いまさらそんな、この人の育て方がダメだといわれたって・・・」というような反応になってしまうことが多いものです。
そうなると、私から御本人を通じて外来にきて、検査(PARS;pervasive developmental disorder rating scales;広汎性発達障害評定尺度という聞き取りタイプのもの)をしたいのですが、と伝えてもなかなか外来に来てはいただけません。
私としては、発達障害であれば、カウンセリングやグループセラピーがメインとなりますし、うつ病のみであれば、お薬がメインになってきますから、治療方針を決めるのに大事なことなのですが、自分の今までのことを責められてしまうのではないか、と怖がってしまう親御さん世代が多いようで、なかなかうまく進みません。
どうやったらいいものかなあと、考えているのですが・・・。
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