2010年9月14日火曜日

依存症治療とは何か?その4

依存症の人の「否認」にぶつかったら、外来で私は何か行動をしなくてはならない、と前回書いた。書いたあとで思った。

本当に行動しなくてはならないのか?

行動、というか、何か言わなくてはならない、と思う。じゃあ、何を?何を言うのだ?

最近の結論だが、何も言わなくてもいいのだ。依存症の人たちは、結局は回復したがっている。だから、私は「あなたが回復したいと思っているのを、知ってますよ」と言語的・非言語的に伝えることでOKなことも多いのだ。

逆に、何か偉そうな、知ったふうなことを依存症の人に言えば言うほど、ぐだぐだの状態(依存症の人たちにとっては、依存行動を継続すること)を増幅させるだけになる。

そう、今私のPCに10分おきに出てくる「新しい更新をしました。再起動してください」のメッセージのように、うるさい、と言われるだけだ。

特に私は女医なので、えらそうにすると、アルコール依存症のおじさんたちは反発を強めていく。私も、そういうおじさんたちに対して嫌悪感を持つので、良い関係は保てない。

ただ、どの病気でもそうだけれども、おじさんだからとか、女医だから、というのは当てはまらないと思う。ひとりひとり事情が違っているのだから、それを考えないと。

難しく言うと、普遍化せず、個別化して対応するべきだろうと思う。

2010年9月13日月曜日

依存症治療とは何か?その3

前回の最後に「依存症って、だからすごいのだ。」と書いたが、いったい何がすごいのか、全然わからない気が自分自身でさえ、してしまった。

形容詞って、言いたいことをつたえきれない。そう思ってしまう。

言いたかったのは、依存症治療が他の医療と同じだと思ってしまうと、つらい、ということだ。また形容詞だ。形容詞が私の文章のほとんどのような気持ちがしてしまう。

医者になって、精神科以外なら、医者は医者として相手である患者さんという立場の人から、役割を与えられる。しかし、精神科ではそうならないことがあるのだ。いや、「ある」のではなくて、「ほとんど」「多い」というべきだろう。

医者として役割を患者さんから与えられないとはどういう事か。

医療を必要としているようにしか見えない相手が、「患者さん」という役割を取ることを拒否するという事態だ。そうなれば、「私は患者じゃないので、医者は必要ではありません」といわれてしまい、こちらはすごすごと引き返すよりほか術がなくなってしまう。

依存症の人たちは、ほぼ全員そういう。逆にそうではない人は、ほんとうに凄いのだ。

あ、また形容詞。具体的に書かなくては伝わりっこないのに、ついつい使ってしまう。

依存症の人たちには「自分が医療を必要としているまでに依存対象があることを認めない」という心性がある。これが「否認」という。

この「否認」の壁は強固で、いったんは「自分は依存症で、どうにもならない」と感じ入ったとしても、しばらくして「どうにかなって」しまうと、「自分は治療が必要なほど重症ではない」と思ってしまったり、「依存症じゃなかったのかもしれない」と思ったりする。

2010年9月9日木曜日

依存症治療とは何か?2

前回は、①患者さんになる人がまず生まれる。つまり、誰かが体調不良なり、精神不安なり、どこかいつもと違っているという状態をもって、治療者の前に現れる(受診)という段階が、「難しい」と書いて終わった。

①があって当たり前と思っていると、依存症治療は成り立たない。なぜなら、「否認」という大きな壁があるからなのだ。

少し話題がそれるのだが、疾患にはそれぞれイメージというか、「この病気にかかってしまったら、こうなる」というような予想図というものがある、と私は思っている。

わかり易い例は、白血病=薄幸の美少女というようなものだ。ただし、いまや白血病の中にはかなり予後の良いもの、つまり回復するものも多くて、この予想図は必ずしも当たらない。

卑近な例かもしれないが、性病は恥ずかしいとか、産婦人科は顔を知っている医者だと嫌だとか、泌尿器科は絶対に行きたくないとか、前立腺肥大症というのが恥ずかしいとか、そういうものがあるのだ。予想図として、これらの診療科は性と関連しているので、日本人の場合「性的に活発=恥ずかしい」という内容が構築されるのだろう。

さて、依存症治療だ。わかりやすくアルコール依存症をとりあげる。

アルコール依存症。一昔前の単語で言うと「アル中」だ。これが相当にひどい予想図をもっている。例えば、ホームレスで、仕事がなく(ホームレスで仕事のある人もいるのでわざと分けてみた)、いつも酒ばかり飲んでいる。例えばのその2としては、のんだくれのオヤジで奥さんに暴力を奮ってばかりいる。

依存症治療を10年以上やっている医者としては、これらはハズレてはいない、と言っておきたい。

大学4年生の時に、東京都監察医務院に見学した。そこで行政解剖を見学したが、その時にはホームレスの人も多く、アルコール依存症に見られる肝硬変や脂肪肝を患っている人はずいぶん多かった。例えばのその2のような、DVもよくみられる。

問題なのは、アルコール依存症について、これら以外の予想図が少なくとも日本にはないのだ。

そうなると、あきらかにアルコール依存症の診断基準に当てはまっていて治療を開始する必要がある人であっても、「自分は、例えばでもないし、例えばのその2でもない!」と言いはって、精神科受診を拒否する。

そう、アルコール依存症=生活破綻者という予想図があるのだ。そして、そのように診断されたくない、という心理構造、これが前述の「否認」というものだ。

放置しておけば、明らかに前述の「例えば」のようになってしまう。だから、そうならないように受診しましょう、というのが、精神科医である私の主張だ。

しかしこれがなかなか受け入れられない。そして、アルコール依存症の人たちは、どんどんその依存物質であるアルコールへの依存を深めていく。

これが「①の段階が難しい」という真意だ。

だから、なかなか精神科受診に結びつかず、その結果どんどん状況が悪くなっていく。

そしてこの予想図、かなりまずい。なぜなら、アルコール依存症=おじさんの病気となってしまっているのだ。

実際には、女性にもかなりの頻度で起こっている。例えば摂食障害の人たちの中には、アルコール依存症も合併している人がかなり多いように思う。私の外来に受診したアルコール依存症人たちの殆どは女性だった。

彼女たちは、「おじさんの病気」にかかってしまったことを恥じていて、精神科に受診しない。親も受診に反対する。「酒の飲み過ぎだ」と本人の意志の問題にされてしまう。こうしているうちにどんどんアルコール依存症は悪化して、離脱症状=禁断症状にいたる。二日酔いに代表されるこの症状、二日酔い程度ならまだ隠せるだろう。でも、進行して幻覚妄想状態や、振戦せん妄というけいれんを起こしたら、救急車で病院にいくしかない。生死をさまようことも多い。仮に生還しても自殺の可能性も高いのだ。

①という最初の段階で、ここまで他の疾患と違っているのだ。依存症って、だからすごいのだ。

2010年9月8日水曜日

依存症治療とは何か?

またまた久しぶりの更新となってしまい、すみません。元気にしてたのだけど。

産休中、自分の仕事を振り返ることが多くなったので、つらつらと書いてみる。

しばらくは、ここ15年ほど依存症治療に関わってきてどうであったか、ということを書こうかと思う。

依存症治療というのは、医学的ではない、と私は思う。医学的とはどういう事か、からはじめないといけないと思う。

医学とはなにか、というまたまた遠大で、大げさな内容になってしまう。しかし続けることにする。

医学とは、要するに学問なのだ。あるひとつのことを他のあることと共通点を見出して、共通点のあるものに応用し、普遍化する。学問とは、そういうことだろうと私は思う。それが医療、つまり、「具合の悪いひとたちを良くする」という行動に持ち込まれたものが医学だと私は思っている。

医療の発展型が医学だ、とここではそのようにしておこう。

で、冒頭の話に戻る。

医学の話だが、もうすこし原型に戻る。つまり、医療ではどういう事が起こるのか、ということと依存症治療を比較しようと思う。

医療では、①患者さんになる人がまず生まれる。つまり、誰かが体調不良なり、精神不安なり、どこかいつもと違っているという状態をもって、治療者の前に現れる(受診)。

②その後に、治療者(現代の医療の現場の大部分を占める病院ではたいてい医者だが)によって、問診が行われ、身体の診察をうけ、検査を受け、診断が決まる(診察・検査)。

③診断が決まると、たいていは現代の医学により治療法があるものはそれを実行する。治療法がない場合は、気休めといっていいような治療をされたりする。どちらもたいていは、薬=薬物療法だ(治療)。

④その後、治療が進んで患者さんは回復する(治癒、回復、完治、寛解)。

大体このようなプロセスがある。ちなみに、医学は②と③が普遍化して体系化したものだと私は思っている。

さて、依存症治療はどう違っているのか?そもそも①の段階が難しい。

この文章を読んで、不思議に思った人!素晴らしい。ちゃんと読んでくれているので、嬉しい。