2008年8月26日火曜日

「きれい」と「こわい」

 8月24日の講演会のこと、まだまだ考えていました。よっぽど影響の大きい体験だったんだなあと思えて、自分自身に「そうか、そうか。ひたりなさい」といってしまっているくらいです。

 ちょっとメモしたのですが、「こわい」と「きれい」というのは、実は隣合わせだったんだなあということです。姫神の演奏を聴いていて、演奏中にスライドショーで映像が流れたのです。その映像が、海から昇る月をとらえたものだったんですね。その映像には、岸が映っていないのです。それを観た時に、私は「こわい・・・」と思ったのでした。

 きれいなんだけど、こわい。

 だって、岸が映っていないということは、海に入って撮ったかもしれないわけで。そうなると、このあと、撮っている人はどうなるの?波にさらわれて、死んじゃうかも・・・。それが私だったら・・・。こわい・・・。
 というわけです。

 まあ、池澤夏樹の「夏の朝の成層圏」みたいなことも起って、助かるかもしれない、と思いましたが。

 この、「きれい」と「こわい」が隣合わせというのを感じたのは、実は最初は3歳くらいの頃だと思います。百科事典(当時あったんです、これが)の、「南極」という項目だったか、「氷」という項目だったかに、南極の氷山が映っていたんです。島のような、平らな氷山が南極の海にぽん、と浮かんでいたんです。バックは全て海か空。しかも、群青色・・・。これが初体験でした。

 たしかに、坂口安吾著「桜の森の満開の下」にも、きれいに咲く桜をみると、気が変になるので(←原文のままです)、花というものは恐ろしいものだと思っている山賊が登場します。彼の気持も、何となくわからないでもないです。

 「きれい」が「こわい」になるのは、もしかしたら、自分がコントロールできない、と思った時に思えることなのかもしれません。

 

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